善悪、長短の価値判断は別として子供の感性をもったまま育ってきた、あるいは育つことを拒絶したまま歳月を刻んできた人間の一人として、楢井春生が今も内に育むものは、手練の早業で観客を煙に巻く手品を演じる手品師になりたい、あるいは天井桟敷の人々を相手に道化を演じるピエロになりたいといった様々な乾いた欲求に他ならない。
 自ら存在することの不確かさ、曖昧さとか、いつかは確実に失われる命とかについてもっと確かなものを掴み取りたい、を知りたい、見尽くしたい・・・そういった欲求に駆られて彼が出掛ける場所は行き交う人々の雑踏の響きと売り子たちの叫びが氾濫する場末の路上の市場だ。市場では売と買が交錯し、人々はなにがしかの生活の糧を稼ぐことに明け暮れる。その市場には生の命があふれている。とりわけ活気のあふれる一角などに彼がなりたいと願う、粗末な蜜柑箱の上に乗って手練の芸を披露する手品師がいたり、白墨で線を引いた区画の中一杯を優雅に動きながら演技をするピエロがいたりする。今や楢井春生は群衆の中で観客の一人となる。決して目立つことのない、特性のない一人になって彼は初めて自分が自由になり、自分の欲求が適えられるのではないかという希望を抱くことができるのだ。
 彼ら、場末の手品師やピエロたちが演じる対象、あるいはネタはおおむね卑賎であり、月並みなものである。ごく月並みな演技者たちはその対照の卑賤さの中に溺れ、そして得意満面に叫ぶ。
「さあごらん、これがあなたたちの姿だよ。私の芸を通して見えるあなたの真実の姿だ」
 やんやの拍手喝采を観客たちは送る。軽薄で、移り気な観客たちにとって、そんないかにもこびへつらった演し物は楽しい。
 だが時としてその観客たちも当惑の渋面を浮かべることがある。総じて価値を押し付けられることを彼らは好まない。こいつは偽者ではないか、観客の懐を狙う詐欺師ではないかとその渋面がぶつぶつ呟く。そして彼らは気まぐれに別の演し物のほうに目を移すことになる。すると、そこにはさりげなく、誰に見せびらかすでもなく高貴さと卑賎さの混然とした形を現そうと試みている別の孤高の演技者がいたりする。観客たちは相変わらず疑わしげな面持ちを崩しことなく、ただ暇つぶしにそこに立ち止まる。そして、何かどこかが今までと違っていることに気づいたりする。何かふっと心に触れるものがある。それが何かはわからないが・・・
「ひょっとすると・・・」と彼らのうちの誰かが自分に呟く。「これは本物かも知れないぞ」
 観客は興に駆られて目を凝らし始める。そしてある瞬間にはっと居住まいを正すことになる。
「何だろう。今わたしの見ているものは・・・」
 彼らが目の前に見つけたものはまさしく人間たちの真実の姿だ。彼ら自身の卑賎さ、猥褻さ、おかしさ、奇妙さ、そして何よりも偽善と弱さだ。
「ようやってくれるよ・・・」
 それから彼らは喉を震わして笑い出す。笑い出すだけでは物足りず、涙を流し、身をよじらせて転げ回ることになる。
「すごいぞ・・・素敵だ・・・」
 こうして技を極めた本物は観客たちの懐に入り込み本物としての栄誉を受けることになる。観客たちはより集ってゆき、やんやの喝采があたりに響き渡り、そして懐紙に包んだ銭が投げられる。銭の額は多分彼らが享受した感動の多寡によって観客たち自身によって決められるであろう。
 これこそがまさに楢井春生が実現したいと願っている真の栄誉ある自分自身の姿だ。その理想の生活を実現するために楢井春生は遠くに旅に出かける。その旅は現実と空想が入り混じっている。彼は空想の中でバルセロナのランブラスの大通りをそぞろ歩き、世界から集まった大道芸人に混じって自ら演じる者たちを夢見る。そこでは彼は観客であると同時に技を極めた世界に通用する演技者でもある。彼はしなやかにパントマイムを演じ、塑像のように静止し、操り人形のように踊る。やんやの拍手喝采に歓呼と喝采と口笛が加わる。そして、楢井春生はその両者を演じるのに大忙しだ。彼は技を極めたヒーローの自分とその技に見とれ羨望に身を焼く敗北者の両方に分裂する。生きること、存在することの意味を極めた感動の極みに混じるもの・・・この不可思議な苦味は何だろう・・・自分の持たないものを持つものたちに対する嫉妬の炎だろうか・・・そんなものは楢井春生には似つかわしくはない。
 それにしても、本物と偽者に対する観客たちの反応の違いは何なのか。本物に対する真の感動はどこからもたらされるものなのか。演技者たちがプロとしてその行動に執着するその衝動の中には時として神の意志になり代わろうとする気高さが仄めかされていることもなくはない。そしてそれに辛酸に満ちた努力や類い稀な資質に基づいた練達の技が加わると、その時まさしくその成果は本当に神の技に近付くことになる。彼ら演じる者たちは自らの複眼で対象を確実に捕らえ、自らの手で料理し、抽象と具象という複雑な手続きを経て、観客たちに真実を指し示す。人達の悪しき部分、卑賎で、猥褻で、おかしく、そして何よりも偽善や弱ささえもが真実の光に彩られて感動を呼び覚ますことになる。多分、だから業を極めたいという衝動が生まれたその動機からして本物のそれは偽者たちのそれとは大きな違いがあるのだ。
 本物かどうかはまだ定かではないけれども、楢井春生にとってその動機とはいわば恐怖と絶望だ。根源的な感情であり、それらから逃れたいという衝動だ。その深い動機は、彼の、あるいは彼の前身の幼年期の深い乾きから発している。あの渇きと焦燥感はどこから生まれたものだろうか。まだ自らがこの世にまっとうに生まれ出でてない、まだ自分がまともにあらわされていないと感じるもどかしさ・・・それをあらわすすべを持たないという絶望感、このままで一生終わるのではないかという恐怖感・・・それらがまさに楢井春生が生まれる前の楢井春生であった。
  自分がこの世に現されていないという恐怖と絶望はしかし、永遠に解決の叶わぬものである。人間の存在そのものが曖昧で捉えどころのないものである以上、そんな自分は捕らえようもなく現されようもない。それは永遠にかなわぬ夢である。しかしそれが本能の欲求として自分に求められている以上、自らと闘い続けるしかすべはない。曖昧さからの脱出し、人生のあらゆる事柄に明快な回答を見出さねばならない。曖昧さは不快さであり、明快さこそ快適そのものである。人間は本来自分の中にアウシュビッツの被害者と加害者の両方を自分の中に住まわせている。のみならず、その両極の中間に広大な曖昧さを宿している。エゴテイストは、真の自意識者は価値の多様で曖昧なものの中を漁る漁師でなければならぬ。内なる無限の曖昧さの中から曖昧でない明確なもののみを掠め取る略奪者でなければならない。その曖昧さの中にどっぷりと身を浸しながら、彼は耐え難い居心地の悪さを覚える。この曖昧さの中に身を潜めたまま終わっては絶対にならないと感じる。そうやって曖昧さ向かい合っている時、ほんの微かに光が見えることもある。突然、明快な光がどこからかさしてくる。本当の自分が突然卵の殻を破り、四足で立ち上がり、辺りの空気の冷たさにくさめをし、そして(うおっ・・・)と咆哮し、初めて自分の存在を自覚する、そんな瞬間が訪れる。だが、それも瞬時の幻の感覚だと気づく。本当の自分ではないと気づく。また再びやり直し・・・何もかもが同じことの永遠の繰り返し・・・
 冷酷な自己観察者は(それがまた楢井春生の特性でもあるが)本来、この内なる曖昧さとはこの命が時空を旅した遠い過去の記憶の残滓であると本能的に察している。その残滓の中を砂金採りのように漁り、一つ一つを指でこすって試すがめつ観察し、これは良い、これは悪いと識別してゆく。良きものを取り込み、悪しきものを捨て去るその作業にこそ己の命の永らえるのを測る尺度がある。
 困難は限りない量の弁別し難いものが残っていて、それでもなおそれらをそれぞれの尺度で無理やりにも弁別し終えねばならないということだ。その限りない消耗のときの中で人は無為のときを費やす。そして、その曖昧さの奥にかすかに光が差し込んでくる。光の差し込む奥にある扉がさび付いた響きをたてて開かれる。その扉の奥にあなたは何を見ることができるか・・・真実は万華鏡の中に映る影のようなもの、あるいは回り灯籠の光が地上に移す陰のようなもの・・・(何もかも見えた)と単細胞が歓喜の叫びを漏らすかも知れない。だがその歓喜は一瞬にして消え去る。多分再び目にするのは曖昧な、無意識の過去の残滓であろう。
 楢井春生はこうしてひたすら曖昧さからの脱出に、そのことだけに固執し、没頭する。その大きな目的の前で現世での生活の些事など取るに足らないことだと思われてくる。そのような資質を持って生まれたものにとってまっとうな社会生活は望み得るべきことではない。楢井春生はこの世にあるすべての職業を憎む。ただなりわいをなすためにある職業という形式を彼は憎む。それが彼の生活を保障するという形でのあらゆる形式を憎む。そのなりわいの形式が何よりも自在な精神と魂を失わせるからだ。真実のエゴテイストとして、自意識者として、生活の為に縛られるという生き方から絶対的に自由になること・・・自我の殻を破り、抽象に入り込む・・・そんな贅沢な衝動を彼はいかにして自らの中で消耗させることなしに守り続けることができたのか。そんな思いを無産者が持ち続けるとしたら(つまり楢井春生が志を曲げることなしに世を送ることを選ぶなら)極貧の中で路上で野垂れ死にをすることになる未来があるだけではないか。その疑問を解き明かすことがまた彼の生い立ちの説明ともなる。そのことこそが更に言葉を費やして説き明かされねばならない彼の謎の部分である。その謎を追うことは月並みな推理小説を読むよりも人にとっては楽しいはずだ。その謎を解き明かすのがこの一文の目的の一つでもある。

 このホームページを開いてみようと思い立っていただいた方々の為に、以上かいつまんで楢井春生の資質と本質を比喩とレトリックによって表現しようと試みたが、その試みうまくいったかどうかは今のところ判断し難い。多分、別の視点から、もっと具体的に楢井春生の世界、その生い立ちから現在に至るまでの人間像、そしてこれからなおも熟成の時を迎えながら広がってゆくであろう全体像について説明することが必要であろう。一つのヒントはここでの説明は楢井春生が自らについて語り、自らの作品を広告する為であることは確かだが、楢井春生自身が語っているのか、あるいは別の存在によって語られている(あるいは語らされている)のかといったことになると、語り始められるこの段階でも、そしてこの語りが終わる段階でも、語ろうとしている本人はもとよりホームページを開いたどなたにとっても判然としない体の記述となるであろうということだ。
 人の世で誰に知られることもないまま楢井春生はまだその名前すら生まれない頃より久しい間別の仮の名の下に同じ肉体の中にこの世に確かに存在していた。(仮にその存在をX氏と呼ぶことにする)しかしその時に存在していたものはいわば形をなさぬ蛹のようなものに過ぎず、生きている命の擬態とでもいったものだった。その存在を宿している宿主は幼い頃より自分の中に生まれつつある別の存在に気づいて、分裂してゆく自らを意識し、そのことに落ち着きを失い、何時か一つの肉体の中に巣くう二つの存在が絶対に相容れないものとして分離することになるのではないかと、時折、何かの弾みに衝動的に恐怖と不安に駆られたりなどした。その衝動的な居心地悪いものから逃れる術は自らの中に生まれつつあるものが何物であるかを見定める為にただひたすら対象を見つめ、ペンでなぞってみたりなどすることであったが、それはまさに不毛な努力で、捕らえようと試みられるものは指先からこぼれ、空の中に消え、その衝動が高まるばかりであった。
 一つの肉体の中に巣くうその二つの存在の運命の抗いは、いい意味で云うならば二つの存在の交感し合う係わりであったろうが、本質的にはそれは服従と非服従の係わりでもある。現れ出でようともがきながらその力を次第に強めてゆく楢井春生と、同じ肉体を借りたその前身としてのX氏との係わりは、一つの肉体を借りて、時には相手を慴伏させ、時には相手に屈服しながら時を重ね合わせて共存するといった体のものである。何時どちらがどちらを挫折させることになるかのか、相打ちとなって果てるのか、それとも、ともに勝者となれるのかは神のみぞ知るである。
 まだその趨勢の定まらぬ今、ここに楢井春生の名のもとに自らを広告すべく(今となっては自らを広告することは楢井春生にとって本能の欲求のようなものだ)文字を刻んでいる者は、だから楢井春生であって楢井春生ではない。存在する二つの自我のどちらが主導的であるか未だに不明のまま、幼年子に発した渇きのまま衝動的に自らを宣伝し、広告しようと試みる、あるいはされようとしているものとしての楢井春生が今やここに存在している。一つの肉体の中にあってそれが現世のなりわいに没入するX氏と楢井春生を一つに束ねることが究極の姿だとその肉体には生理的に、本能的に理解されてはいるのだが、それが途方もなく困難なことであることもまた同じように理解されている。
 何ゆえにこのような分裂が生まれたか・・・楢井春生は一体何者なのか・・・これらの疑問に拘り、疑問を解く為に彼の目に見える姿を捕らえる為に命を刻む努力を重ねることがX氏にとって云わば生きるよすがのようなものであった。
 楢井春生の存在の”兆し”はまさそくX氏が生涯の目的も定まらないまま闇雲に頭をぶっつけていた時代の様々な人格形成に係わる幼年期の体験にこそあるであろう。様々な出来事があって、その中でもたった一つの運命の時に彼は永久に立ち止まり、そこか離れることも育ってゆくこともなかった。豊かな、あり余る夢と、そして彼の中にあった詩魂が見るも無残に打ち砕かれ、彼は自らを殺した。いや、物理的に殺す変わりにまずその魂を殺して肉体的に生き延びることを選んだ。実ることを拒む心をうちに宿したまま時が過ぎていった。あり余る愛を享受しながら(そう、彼はいつも有り余る愛を享受して育った)何かがかけている日々だった。この二つの背反した動機、あり余るものを持て余しながら欠落したものが何であるかを捜し求めるという性向が生涯にわたって彼の心的な性向を決定づけることになった。幼い日に彼が体験した不条理への拘りから自分自身を解放させるために、受け入れ難いものを受け入れるために、彼が繰り返してきた葛藤がその”兆し”にさらにはっきりとした姿形を与えた。
 ”楽園の午後”の時代を通り抜け、偶然の切っ掛けから彼が携わることになったなりわいも彼の人格の核の部分には何の影響もおよぼさず、その性向に変化をもたらすこともなく、ただ彼には永久に馴染めないと思われる律義さとか、習慣性、惰性といった奇妙な習癖を身につけただけであった。(天職ではないなりわいを職とする大多数の人々にとって、そのなりわいとその人の人格との係わりぐらい奇妙で、違和感をそそるものはない)彼は彼なりにその惰性から抜け出す努力を重ね、そのようななりわいのみの為の努力と云うには桁外れな並々ならぬ集中力を発揮してそれなりの成果を得ることになる。
 X氏のなりわいがどのようなものであり、どのような偶然で身につけたのか、成功を収めたのか否かといったことなどはこの際問題ではない。問題はどのような切っ掛けであれ彼がそれを身につけることになった”偶然”が自分の一生を支配することになるかも知れないという惧れに、彼の自尊心、あるいは己の存在理由(レーゾンデートル)を探索する繊細な神経が耐えられなかったということだ。そのことが楢井春生の存在を彼の中で肥大化させていった理由の一つでもあったろうと思われる。
 まさしく、X氏にとっては彼が生きている時と彼のありようにはすべて必然性がなければならない。X氏の人生は云うなれば幼い日に体験した不条理な運命(それは偶然彼の身に振り掛かってきたことだろうか)から自分を解放させるべく、そしてまた自ら存在することに必然性があることを自己証明すべく涙ぐましい努力を重ねたその経緯のようなものである。生きてゆく道筋を含めて自分の存在が必然的なものだという存在理由が見いだせないなら、自分はまだ生まれてさえいない、生き始めてさえいないと同じことだ。もしそうなら、彼はその必然を作り出さねばならない。そんな深い思いと祈り、そして強い意志が彼を苛み続けていた。彼の身に起こるすべての偶然をあるべき必然と見なそうとする不毛な努力のために彼は痩せ衰えてゆき、血反吐を辺りに撒き散らした。
 この焦燥感の根底には、彼の命のみなもとをなす存在でありながら、何の必然性もなく運命に翻弄されて先立っていった無数の命への鎮魂の思いがある。彼らの累々とした屍がその後を辿っている彼の目をめくらましのように打ちすえる。
 つまり、X氏によって意識される楢井春生の由来は単に幼年期の体験のみに止まらない。さらにその時をさかのぼること百年の、戦いの世紀が始まる頃から、彼自身の胎内に内在する血の中にその萌芽はあって、まだX氏本人が生を受けていないその時期に溯る。そして、その血に縁のある者たちの思いが重なり合い、因り合わさって、その融合された精神的なエネルギーといったものが明確に一つの場所の名前と時を暗示するその名前に収斂し、具象化していった。その名前は血の縁の者たちの請託を果たすべく生まれたのだと自覚された。そう自覚された理由は、それまでにX氏を衝き動かし続けてきた根源的な衝動、自分自身を現したい、自分自身の確固とした世界を構築し、それを生きるより所としたい、あるいは内なる無限の世界を捜し求めようとする意志と、執着心が余りにも強く激しいものであったからだ。
 それゆえに、楢井春生の真実を探し出そうとするX氏の本質は数千年にわたる人類の歴史を築いてきた恐らくは百億を越える数の日本人の個々の存在の血とDNAの数だけの請託に呪縛された存在にほかならないという認識にある。そう認識された時、その百億の目が彼の背に降り注ぎ、その一つひとつが失われていったその瞬間の祈りや、恨みや、苦痛に戻る。彼の命はもはや彼一人のものではない。普遍であり、百億の中の一つに位置する必然の存在に戻る。 
 こうした内的体験を通り抜けたものに遂に神の恩寵がもたらされる。もはや彼は普通の人の視点でものを見ることができないが、それに代わる特別の眼差しを身につけることになる。するともう彼は己の人生の営みをより建設的なものにしようとか、幸せを捜し求めるといった月並みな意味での向上心には無縁の存在となる。現実感覚の失われた永劫の時を彼は生き続けることになる。

 あの、最初の啓示はどのような切っ掛けからもたらされたものだろうか。それは彼が生涯続くことになるささやかななりわい得てまだ一二年たったばかりの頃のことで、彼は夜汽車に乗って行商の旅に出掛るところだった。寝台車に乗る身分ではなくて、彼は固いごつごつした三等車の座席に背を丸めて座っていた。裸電球に照らされた薄暗い車内は様々な人たちが無口に押し黙って窓の外を見つめていたり、口を開けよだれをたらして眠りこけたりしている。窓の外には闇が広がっている。その闇の中を山が飛び、木々が飛び、妖怪が飛んだ。車輪が線路の上を走るごとごとという響きと振動が体の底に伝わって来た。その響きの中に突然、啓示のように大きな疑問が心の中に閃いた。
(俺は何をやっている。どこへ行こうとしている)
 その疑問はかのアンナ・カレーニナが夜の駅頭で汽笛の響きと一緒に線路工夫が金槌でレールを叩くカンカンと響く乾いた音の中に感知した自分の運命の予感のようなものと重なっていた。それは何時かは訪れる死の予感でもあった。このようなことをしていると、何ひとつ自分というものを現すことができないままいつかはどこかで野垂れ死にする、この世から消えてしまうことになるかも知れないという恐怖がこみ上げてきた。それはまさしくぞっとするような恐怖で、彼は震え上がった。そして自分の体の震えと一緒に彼とは違う何者かが彼の体から抜け出ようとその震えにあわせてあがいているのに気づいた。
「お前は何者だ・・・」
 X氏はいぶかしげに問いかけた。
「そのうち分かるさ」
 そう答える声には意外なほど優しさと思いやりが籠っている。闇に向かって閉じられた窓が相手を見極めるための格好の鏡の役目を果たしてくれた。相貌も定かではない影のようなものが窓の中に映っていて、X氏の影に重なりながら奇妙に震えながら膨れ上がってゆく様子がまざまざと見てとれた。
 自分の未来を垣間見たその瞬間こそはX氏が自分でも気づかないまま自分とは別の存在を自分の中に意識した瞬間でもあった。そして、その恐怖の思いは自分の中に意識された別の存在が忘れられた後も意識の痕跡としてX氏の中に残り、その旅から戻って、X氏はただひたすら自分を現しておきたいという衝動に駆られて自分自身にまつわる終わりのない物語り、自分自身の死によってのみ終わるであろう物語を書き始めた。だがそれは不毛な努力で、ペンを取って白い紙に字を埋めようとしてもいっかな物語の体をなさず、字句と字句の間には何の意味のつながりすらも生まれなかった。ただ焦燥感だけが彼の不毛な努力の継続を強い続けようと試みた。すると、その焦燥感の中に何の脈絡もなく“鷲羽山”という山の名前が浮かび上がり、激しく彼の頭の中を渦巻き始めた。瀬戸内海に面したその山はX氏のふるさとに近い山だった。取り立てて特徴のないありきたりの山ではあった。かつて考えたことも感じたこともなかったが、その鷲羽という名前が衝撃的なほど美しく、懐かしく感じられた。巨大な鷲が羽を大きく広げて悠揚と空を舞い、日の日差しにてらてらと水面を輝かせる瀬戸の海に灰色の羽をはらはらと撒いた。まるで別の世界がその山と鷲のイメージを伴って彼の前に開けていた。彼はいつかそこに、その美しい名前のほうに戻らねばならなかった。その瞬間以降彼はその帰るべき場所に向かって限りなく長い旅を続けることになるであろう。その美しいものはあるいは死かもしれない。それは分からない。それは彼の思いではなくて彼の中に生まれた、あるいは生まれ出ようとしている何かわけのわからないものの強い衝動であり、意思であり、願いであり、いわば一種の請託のように思いなされるのであった。

 二つの人格に分離してゆく過程では両者の間には様々な摩擦とその摩擦を解きほぐそうと試みられる対話とはならない会話がある。その会話は何時も相手が何者であるかを見定めようとする探偵ごっこのような、謎解きのゲームのような趣を帯びる。探偵ごっこと云い、謎解きのゲームと云ってもその主役はあくまでも楢井春生の前身、つまりX氏のほうである。楢井春生本人はあくまで犯人らしからぬ犯人であり、ゲームでの一つの駒に過ぎない。楢井春生が別の名前を持った別人格とは意識されてはおらず、それはX氏の体の中に巣食う寄生虫のように意識されているだけだ。おそらくは世間的な偏見とそれに毒されたX氏の含羞の思いのために、(あるいはそれはX氏の中に巣食う救い難い俗物性のせいかも知れない)X氏が楢井春生の存在を不当に圧殺しようとしていたことは否めない事実だ。楢井春生自身最初の間は自分の分際を心得ており従順そのものであった。
 そんなわけで両者の間で会話が始まるのはいつも決まってX氏がぶつくさと文句を云うところからである。「あなたは出愚の棒だ。役立たずの出愚の棒だ。どうすればあんたを追い出してしまえるか分からないのでこっちは苦労している」
「役立たず・・・役立たずとわたしのことを云うのかね」
 楢井春生は穏やかに反論する。「そんなにまでわたしが君のとって疎ましい存在であるとは知らなかったな。でも、もし君の中にわたしが存在しなかったら、君はスパイスの効いていないガスパッチョか、カレーの入っていないカレーライスみたいなものじゃあないかね。そんなものが食えるのかね。そんな自分に耐えられるのかね。生きて行かれるのかね」
「そりゃあ確かにあなたには哲学があるのかも知れない。私の頭を借りて、生きる意味とか、より所といったものをしょっちゅう考えているところをみるとね。だが、そんなものはこのやっかいな体を維持する為に何の役に立つ。まず食えなくっちゃあ何も始まらない。生活苦にあえいでいるこちとらにとっちゃあそんなものは無用の長物さ」
「へええ・・・。そんなにあんたは苦労しておるのかね。いかにも生活を楽しんでいるようじゃあないか。見たところ・・・」
「そういうふりをしているだけだ。ふりを・・・」
 X氏は苛々した内心を苦々しくさらけ出して云う。
「あんたに取り憑かれて以来こちとらは散々な始末さ。あんたが来たなって思うともう何もかも手につかなくなるんでね。あんたのお陰でわたしは人から学習障害児だとまでさげずまれるまでになってしまったよ。どうしてくれるんだ」
「私の生徒は思わないけれども・・・そうだったのか。そこまで自分を苛め、悩んでいたのかね。かわいそうに・・・」
 その同情的な口調からすると、どうやら楢井春生は他人の気持ちを汲む度量ぐらいは持ち合わせているらしい。
「これも何かの縁なのだからわたしとしても何とか考えなくっちゃあいけなかったな。そんなに君が苦しんでいたとは気がつかなかった」
 相手のいかにも同情めかした口調にX氏はいささか戸惑い、相手の腹を探る為に相手に探りを入れようと試みる。
「そんなことにも気づかなかったのはあなたがわたしを軽く見ているからなんだ」
「軽く見ている・・・そんな・・・それは誤解だよ、君・・・」
 楢井春生の頬にはわざとらしい真面目腐った表情が浮かぶが、意外と単純なX氏はそのポーズにごまかされて素直な気持ちに浸る。
「これでもわたしは本音を云うならあんたを忘れようと必死なんだ。忘れるふりをすれば結構これで快適に生きていかれるからな・・・だが、そいつが・・・そのい青白い馬がやってくるともう何も手につかなくなってしまう」 しばしの沈黙が二人の間に生まれた。
「同志よ・・・」
 楢井春生は重々しくも厳かな声でささやくように云った。
「同志なんて呼ばないでくれ。あんたは鼻持ちならん。我慢ができない」
 とうとうかんしゃく玉を破裂させてX氏は喚き、毒づく。
「あんたのそののうのうとした態度が勘に障る。あんたがそうしてのうのうとしておられるのもわたしのお陰だということを忘れてもらっちゃあ困る。畜生め・・・白状するとな、お前さんを何度この手で殺してやろうと思ったか知れやしない。なのにのうのうとしやがって・・・殺すこともできぬほど勝手に育ちやがって・・・」
 X氏がそんなふうに逆上してくるともう誰にも手がつけられないのだが、楢井春生のほうは相変わらず春風駘蕩、どこ吹く風といった趣である。
「なあ同志さん」
 今度はさん付けでいささか相手に敬意を表しているところが楢井春生の狡猾なところでもある。
「君は存在理由を気にし、そのことに拘っているようだが、君がそのように君として存在していること、たとえわたしの存在が無用の長物であれ、その御しがたいものを持て余しながらも耐えているその姿こそ貴いのだ。君がそのように存在し続けることこそ意味があるのだ。わたしの存在は君と裏腹でありながらお互いにかけがえのない存在であるという点では共存共栄でなければならない。君が何者であれ、君が君の中にわたしを宿すことになった必然こそ何にも増して君のレーゾンデートルがある。だから、もうそろそろ君とわたしの違いを云々することはやめようではないかね。我々と他人との違いを立証し、自覚することがお互いの為ではないのかね。君とわたしの違いはわずかでしかない。虚構の世界に身を置いてそのテーマを追求するという、君が獲得することのできなかった手法をわたしは獲得しつつある。不毛の現実にどっぷり浸っている君との違いは人生を追及する手段が違っているだけで、目的に違いがあるわけではないのだ。そう、君とわたしはお互いに見者として現実をわきまえながらそれを追求する手段が違っているだけだ。それだけのことだ。ところが我々と世間の人との違いは宇宙の両端ほどの違いがある。つまり、世間の人々が惰性の中で自分を見失って生きてゆき、それを月並みな成長と捕らえているのに反し、幸か不幸か我々はそのような生き方がどうしても受け容れることができないということだ。云うなればそれは我々の共通の業なのかも知れないがね、ともかくそれがすべての出発点なのだ」
 楢井春生の説得には真情が籠っていて、そんなふうに諄々と諭されるとX氏としてもいくらか心が和んでくる。自分が洗脳されるのかと思うと癪だが、X氏も結構素直なところがあって、さらに言い募りたい気持ちを抑えて穏やかな口調に戻った。
「いかにももっともらしいが、あんたが些細な違いだと云うその些細な部分がこのわたしにとってみれば大変なのだ。だからすべての点においてもっともらしいあなたの指摘がまるで逆なんだ。つまりわたしと一般の人の違いは些細なもので、あなたとわたしの違いこそ月とスッポンなんだ」
「いやいや、違いはちょっとした視点の違いからきているだけだよ。価値観の違いというほどのものではない。ほんのちょっと肩の力を抜くだけでよい。そうすれば自ずと見方が変わってくるよ。虚心坦懐にお互いの立場を理解しあおうじゃあないかね。君にも分かっている筈だ。人間それぞれ役割分担というものがあってね。自分の役割に納得できなければ不幸というものじゃあないかね。王道を目指すのは優しいことではない。誰でもそれを目指すがたいてい挫折するか横道にそれてゆく。手段を身につけるだけの成果を見る前に挫折することになる。その点わたしは君のお陰で自分の道に専念できる。君は、そう、云うなればわたしにとっては砂漠の商人となったランボーのようなもんだ」
「え、ランボーって・・・砂漠の商人・・・そいつは何者だ」
「ランボーを知らない。天才詩人さ。ほら”酔いどれ船”のな。あんまり砂漠の中を歩き過ぎて足が壊疽をおこして死んじまったがな。いやいや、何も君の同志を騙るこのわたしが天才詩人だと云うつもりはないよ。君に甘えることしかできないこのわたしは所詮鈍才だと分かっておる。甘えるところがあるのも善し悪しでね。まあ何時か・・・遅くやってきたランボーにでもなれればと思ってはいるんだがね」
「あんたが詩人だって・・・」
 X氏は皮肉っぽくうそぶく。(ランボーを知らないわけはないさ。この俺だって・・・)とX氏は心の中でひそかにぶつくさ云う。(知らんぷりをしてやってるんだ。お前に花を持たせる為にな。第一俺がその名を教えてやったんじゃあないか)
「そうさ。歌わぬ詩人さ」
 超然とした口調で楢井春生はそっぽを向きながら答える。
「いいかね、君。考えてみたまえ。そのランボーにとって本当に至福の時は輝かしい詩才で成功を収めた十七歳の時であったか、それとも、砂漠の商人となって地の果てを砂を噛む思いで彷徨ったその生き方の中にあったのか。なぜ彼は輝かしい成功を捨てて地の果てを目指したのかという疑問を説き明かすことができれば自然に答えが得られる。ああ君、これは実の深遠なテーマだよ。人は何の為に生きるか。ランボーが自分以外の誰の考えにもよらずして自ら答えを出して行動に移した。わたしは長い間そのことを考えあぐねた末に誰でもが直感的に思うのとは逆の結論を引き出したんだ。芸術至上主義の陰の人生を生きることを拒絶して彼は商人になる道を選んだ。本物の詩人はな、己の詩魂を殺すことによって、殺し続けることによって詩を紡ぐんだ。詩魂が自分の中から完全に抹殺された時、蚕の口から吐き出される糸のようにきらめくような言葉が綴れ織りとなってあふれ出る。そして、砂漠の商人となったランボーは一つひとつの取引の成功の、その一つひとつの充足感は多分彼にとって完璧な一遍の詩ができあがる瞬間の至福の時に匹敵する何かであることを彼は知ったに違いない」
「つまり何が云いたいんですか。わたしはなりたくて商人になったわけじゃあない。わたしは詩人の魂なんかこれっぱかりの興味もない。至福の感情なんでこれっぽちも味わったことはない。あんたが何者であろうとそんなことはどうでもよい。問題はわたしのほうだ。わたしの肉体はあんたの重圧に耐え兼ねてもうがたがきてしまっている。ランボーさんとやらと同じように体中が壊疽を病み、そこに砂漠の砂が食い込んできて痛みに悲鳴をあげている始末だ。甘えるところがあるのも善し悪しだって・・・この痛みをもたらした張本人にそれを云われたんじゃあ世話はない」
「分かっておるよ。君」
 慌てた口ぶりで楢井春生が答える。
「まあまあそうぼやきなさんな。君のお陰でこうしていられると感謝しているんだから。君に頼らずに生きていたら多分このわたしは飢え死にしたろうと分かっている。それに・・・」
 楢井春生の顔には今までに見たこともないようなしおらしくも生真面目な表情がふっと浮かぶ。
「わたしが柄にもない自己弁護をしていると思うかね。そんなことはない。何より君のことを気にしてランボーの話を持ち出したのさ。君を砂漠の商人となり果てたランボーと呼んだのは君を軽蔑しているからではない。そういう判断を越えたところに二人のランボーがいる。二人の・・・いや、待てよ。ランボーは君なのか、それともわたしなのか、それとも両方なのか・・・頭が混乱してきたぞ・・・どちらが勝者であるかが問題だったんだな。君はぶつくさとわたしに文句を云うがそれはわたしの真実の姿を見ていないからだ。わたし自身は君の陰なる存在、汚れ役とは云えないまでも汚辱に包まれておる君を永遠なるものに変える陰なる存在と心得ておる。その役を引き受けることがわたしの使命だと自覚しておる。君が味わっている、砂を噛み、唇から血をしたたらせる痛みと、喉のひきつれるような飢えと乾きが、歳月の中で、至福に満ち溢れる喜びへと変貌し、そして、陰でなく日向で生きる存在としての自分自身を完成させていったランボーの見者の目が君のものになることを祈ってな。そうとも。本当は君自身にこそ至福はあるんだ。君が勝者なのだよ。わたしはただ、君にそれをもたらす触媒、あるいはスパイスみたいなものに過ぎない。そして勝者である君のおすそ分けに預かろうという悪賢い算段を働かせておるだけの哀れな存在なんだ」
 こうまでへりくだってレトリックに細心の注意を払う楢井春生の涙ぐましい努力を見るにつけ、もうX氏も怒る気さえおこらない。話の噛み合わない際限のない会話にX氏のもどかしさは募るが、際限のない抽象的な議論では楢井春生が自分にとってとても適わない相手だと分かっている。次第にX氏は自分が催眠術にかかっているような気持ちにさせられる。
 以上がX氏と楢井春生の間で繰り返される日常の会話のパターンである。このような馴れ合いが生じるまでには、しかし、お互いの存在を意識し始めて以来かなり長い間、犬猿の仲とでもいった、時には険悪な、時には無視し合う関係が続いたものだ。だから、この馴れ合いは多分これからの後のよりよき変化を予測させる兆しであろうと思われる。

 新しく生まれ出で、自己主張をし始めた存在は、どのように自己を偽ろうとももはや曖昧な存在では決してない。自らを現そうとする明確な意志を持った存在、云うなれば自意識の結晶体である。狂気にも似た、透徹した客観性を求め続ける意志、自分を完成し、完結しようとする意志・・・それが楢井春生なる存在である。X氏から幽体のように離脱して別の人格を形成していったその経緯の果てで彼はX氏との一体化、調和と融合を希求しながらすすり泣く。
 更に、己の存在理由を探し求める衝動に係わった深い恐れがその彼を苛むことになる。ひ弱な人間としてある自分をはっきりと自覚しながら、神たろうとする衝動がその中に芽生えるのを抑えることはできない。世界を創ろうとする神の意志のもとに神の技を身につけようと試みる絶え間無い研鑽の中で、神への反逆の中でその反逆の炎に身を焼かれ、自ら滅んでゆかねばならない恐ろしい予感がある。生きることは苦しく、にがく、切ないが、それを突き抜ける激しい歓喜がある。だから、その歓喜を味わうためにそのことに楢井春生は熱中しようとする。そのことに熱中しようとすればするほど反逆の思いが深まり、そして炎に身を焼かれる恐れと苦痛が深まってゆく。
 X氏から引き継いだ存在することへの不安がその根底にある。この場合悩みはもっと現実的で、もっと通俗的である。何時か必ず不条理な死によって中断されることになる存在することへのあやふやさをいかにすれば確実に捕らえることができるか・・・そのあやふやさに対する恐怖をいかにすれば克服できるのか・・・まさしくこれこそがX氏の幼年期の体験のトラウマが転移したとも云い得る楢井春生の終生のテーマでもあった。つまり楢井春生の本質がそれなのである。
 楢井春生という名前すらもまたその存在のありように係わって象徴的である。この四つの漢字の一字一字がX氏から引き継いだ楢井春生の存在の文字による具象である。語呂といい、その四つの漢字の組合わさったニュアンスといい、いかにも泥臭さと救い難い凡庸さの中に埋められているにも係わらず、その名前にX氏が拘るその態度の中にも楢井春生誕生の鍵が潜んでいるのであろう。だから、その拘りを通してその謎を追うことが最も当を得たアプローチの仕方と云えるであろう。その名前の誕生した時期は他人の目に何時から触れることになったかはともかくとして人が世紀末を云々する一九九九年である。ある場所の名前と生誕の季節を刻んでこしらえられたその名前はそれら意識の集合体の記号としてのみ存在するのである。
 つまり楢井春生は一人の創作者として存在するのではなくてそれらを顕す衝動そのものである抽象的な謂れに他ならない。手段として選ばれたそれぞれの状況の中に楢井春生は限りなく深く埋没し、現されることの適わなかったことに拘る。彼にとっては、一つの作品が完成した時にはもはやそれはほとんど意味を失う。一つひとつの作品に現されたものよりも現され得なかったものがそれ以上に重要になってくるからである。現し得なかった無数の過去たちが生まれなかった水子のように恨訴の泣き声を漏らしながら彼に迫ってくるからである。
 彼にとっては一九九九年は一つの区切りに過ぎず、血の縁の者たちに対する請託を果たす為の活動はそれに先立つ何十年も前に始まっていたのだが、その区切りの時より新しい活動が始まり、その活動はすべて二千三十三年に終わると定められている。
 だがこの終わりは単にX氏の肉体的な死のみについて予言されていることである。その誕生の由来からして楢井春生という存在がその肉体的な死によってどのような制約を受けるのか今のところいささか曖昧である。彼の場合は普通の命を持った生命体とはいささか異なった特性が備わっていて、例えばそれは時間と空間にたいする存在の相関関係といった点で特徴的である。彼にとって過去の時間的な長さと自我の空間的な広がりは常に未来におけるそれらに等しい。生きてきた時間が長くなればなるほど、そしてその過程で進化がもたらされればされるほどそれから後の空間と時間の広がりが比例して拡大される。
 まだその時を迎えていないがそれを実証するために残余の時間があることだけははっきりしている。己の残りの人生を寸分の狂いもなく図りながらその図られたままに実行してゆくことに楢井春生の目的意識が集約されている。
 そして、楢井春生はその死の瞬間にこの世のすべての呪縛から解放され自由になり、己を完成しなければならない。この壮大な夢の実現の為のタイムリミットは先に予告されたように二千三十三年である。
 この定められた期間は大いなる予言に基づくものである。寸分の狂いもなくその予言が果たされるかどうか、このホームページが証言者となってリアルタイムで追い続けることになる。その記録としてのこのホームページは日を追い、月を追い、このホームページは更新され、編集し直され、磨きあげられてゆく。したがってこのホームページはそれゆえに三十年にわたって書き継がれる楢井春生が生きた証しとしてあらかじめ公開された遺言とでもいった性格を帯びている。これから三十年にわたって一ページまた一ページと生命を吹き込んでゆく精神活動を人はただの偏執的なものと見なすかも知れない。だが、ほんの僅かの人でも楢井春生の中を貫く自らを完成しようとする意志と、熱狂の中に共感できる部分を見いだし、共感の涙を流すものが現れればそれでこの作業は成功したということができる。
 これから、時をおいて次々に開示されようとする楢井春生がひたすら虚構の世界に身を置きながら自らの世界を構築しようと試みる一つひとつの作品群を恣に分類し、説明する。楢井春生の世界はまさしくその分類の襞の中に存在する。その襞をめくり、そのほの暗い片隅に光を当て、密やかに虫眼鏡を覗く読者こそ楢井春生にとって最愛の友であり、心を通わせる同志である。