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駅長の娘
楽園の午後
いれられざる者
叫び(未刊)
雲の上のカーチャ
ロンドンから来たサイコロジスト
ピョンヤンに死す(未定)
第四の眼差し
サカナの時代(未刊)(2004年8月刊行予定)
神々のふかきかわき
鷲羽山へかえれ(未刊)
・第一部(2004年6月刊行予定)
・第二部(2004年12月刊行予定)

百億の呪縛(未刊)
 

題 名 解 説


駅長の娘







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 高校のクラス会の案内状を手に久しぶりに訪れた故郷の片田舎の小さな町は昔と変わらぬ光景と人間模様の中で眠っているみたいだった・・・そんなふうな感慨を込めて一人称で語られながらおだやかに展開してゆくこの世にも美しく残酷な物語を読み進むうちに読者は何か不思議な懐かしい思い誘い込まれてゆく。多分その雰囲気は作者の古きよき時代への郷愁とか少年期への思いが重なり合って醸し出されているに違いない。変わらぬ川の流れと、その川に跳ねる鮎の銀鱗のひらめき、廃墟と化した薔薇園、ドクロ・・・筋書きを構成するすべての道具立てが余りにも通俗的であるにしても、世俗を超越してでもいるような、この奇妙な美しさはそのような作者の思い入れからもたらされたものに違いない。その思い入れの向こうには、現代の世相のアンチテーゼの物語りを創ろうとする意図が覗いている。
 しかし、それだけだろうか。端正さと気品に満ちた表現の合間から所々に現れる曖昧な、思わせぶりな表現はそのアンチテーゼを担う女主人公ですらこの作品では本当の主人公ではないことを示唆しているようでもある。日常的な事柄と非日常的な事柄の亀裂が作品の持つ純粋な部分と、そして現実そのものを壊してゆく。それは貪欲なテーマへの執着が破綻を見せている部分でもある。
 多分、本当の主人公はあくまでも移ろいゆく”時”そのものであり、それに気づいた時にようやく読者はそのような破綻にも納得することになるだろう。

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楽園の午後






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 駅長の娘と同じ係累に即す作品でありながら、もっと遠くに回帰してゆき、もっと純化され、もっと沈潜した世界が展開する。もしあなたが作者と同じように子供の目をもっていたなら、この作品に魂を奪われるだろう。そしてあなたは自分自身をそこに発見して愕然とするだろう。   幼い子供の目を通してこそ存在するものはすべて整合性をもち、それぞれに完璧な様相を呈している。汚れた目には見えないものが見え、聞こえないものが聞こえ、真実が花開く。小さな寓話の世界・・・駅長の娘が広大な時の広がりを見せたのに反してこの作品ではその限られた時に宇宙が凝縮され、その世界は無限に縮まってゆき、やがてすべてがブラックホールに呑み込まれるように無と化してしまう。

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楢井春生の原風景
 この分類に属する作品は楢井春生の原点、あるいは原風景が現されている。そこには愛がある。郷愁や、夢や希望がある。そして、人生の残酷な真実を幼くして知り尽くしたものの苦汁を呑む思いと祈りがある。

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題 名 解 説
いれられざる者








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 対立から和解に至る大きな時代のうねりの中でその時々の時代と世間に対してあらがい難い拒絶の心をうちに抱いて生きる男たちの群像。人間たちの姿をそれぞれに等身大に描きながら、戦後の五十年間を劇的に描いた壮大な叙事詩。北の大地に鮮烈な魂の歌が流れるとき、リリシズムとストイシズムの美しい宝石箱の蓋が開けられる。若者は何ゆえにすべての絆を捨てて追われるように故郷を出たのか。あまりにも大きな拒絶を心に抱いているがために青春の甘い実りにさえ背を向けて若者は故郷を捨てて北の大地に旅立つ。何が人生で大切なものなのか。生きる意味とは。死とは。重苦しい根源的な問いかけを胸に秘めながら若者は極寒の北の大地を、半生の時を、そして広大な内なる世界を放浪する。留萌、立川、稚内、そして函館、釧路、札幌と若者はさすらう。北の大地に根を降ろそうと志し、模索する若者を時代のうねりが容赦なく、激しく、冷酷に牙をむき、爪を立てる。
 そして、若者が心のさすらいの果てに見いだしたものは何だったか。それは彼が拒絶しようにもしきれなかった心の内なる古里だった。
(君の瞳の中に旭川の川面に照り映える日の輝きが見える。君はあの丘の中の小松林の中の枯れ草の蒸れた匂いがする。忘れてしまっていた母の乳房の匂いがする)
 王道を目指す者は狭き道を辿らねばならない。王道は何にも増して困難のうちに見いだされる。目指すものが何であるか若者が自覚していなかったにせよ、何ゆえにすべての絆を断ち切ってふるさとを捨てたのか自分自身にも分からなかったにせよ、目指されたものが困難の中で見いだされるという本能的な自覚だけは彼にはあった。そして、何よりも王道を目指しているという自覚があった。
 

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叫び






 遠い野生の呼び声の響き渡ってくるようなこの作品はX氏のさる古い友人が実際に体験したものを楢井春生が興味を示して書き上げた、実話をもとにしたフィクションである。その友人は長い間X氏の前から姿を消していたが、(その期間、彼は水産会社の南米のスリナム駐在員として十何年間赴任していたのであった)ある時突然現れて自分の体験したこの興味ある話を語り始めた。
 彼が語り始めたこと、そこで彼が体験してきたことがらはすべて文明社会の規範や、常識や、日常性そのものからはるかに外れていることばかりであった。そのドラマチックな体験のせいか、X氏の前に現れたその友人は五十歳前後のはずなのに苦労の痕を忍ばせて見るからにしわだらけの顔と、真っ白な頭髪に変わり果てていて若い日の面影は残っていなかった。だが、語られたことの衝撃的な内容もさることながら、X氏にとって感銘的だったのは、その友が自らが体験してきたことを語りつぐにつれて、突然若い日のらんらんとした目の輝きをとり戻し、早口にしわがれた声でしゃべるその口調から燃えるような魂の熱気がX氏に伝わってきたということであった。彼はあたかスチーブンソンの小説の中の引退した海賊のように生き生きと自分の体験した事柄をしゃべり、そのために彼が体験したことはもはや紛れもなく伝説の世界の出来事ででもあるかのように思いなされるのであった。
 アマゾンの奥地で起こったこの稀有の出来事について語り終えた時、その友の表情には自分の中に野生の叫び声を聞き届けたものの持つ充足感が現れていた。そしてまた、彼は風のようにX氏の前から去っていった。
X氏から楢井春生にこの話が伝わった時、何か彼の心の琴線に触れるものがあった。彼もまたその知性とともに野生叫び声を聞き取る類の能力を身につけた存在だったからだ。
 このような経過から、あなたもまたアマゾンの奥地の森の叫び声を聞くことになる。

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抹殺された詩魂

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題 名 解 説
雲の上の
カーチャ








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 カーチャの孤高な戦いが自分の中で始まった時、楢井春生はとりとめのない感慨に浸りながら自分自身に向かって叫んだ。(カーチャは私だ)こう叫ぶ彼の心にはしかし、気負いと、ペダンテイックな俗臭ふんぷんとする気取りがある。
 しかしそれでもなお創られた存在に過ぎないカーチャは創った存在を離れて生き生きと紙面に躍動する。トラウマによって純粋培養された機械のように凄絶な悲劇に向かってひた走るカーチャの姿にはほかの醜さをすべて覆い隠すに足りる美しさがある。
 ミラクルとミステリーの国、日本の男に対するカーチャの愛は愛というよりもバイオレンスだった。そのエネルギーがどこからもたらされたのか、この作品はその秘密を余すことなく暴いてゆく。戦争による征服は端的に獣的でり、分かりやすく単純明快なものだ。だが、戦争によらない経済的侵略があって、征服と非征服の新しい構図を形作る。そして、その戦いに敗れた民族の、誇りをずたずたにされた民族の、目に見えない本能的な民族的なトラウマがこの作品のある意味でのテーマである。経済的に征服された国と征服された国の間に横たわる巨大なトラウマ・・・そのトラウマを抱いてカーチャのヴァイオレンスが爆発する。
 

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ロンドン
からきた
サイコロジスト






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 この作品は後の作品、"百億の呪縛"に対比する小さな、小さな、アンチテーゼといった趣をおびている。呪縛された者たちの蠢く影絵がページからページに無数に散らばっていて、それらが乱雑にそれぞれに暗い光源となって蛍のように行き交う。
 そして、この小さな呪縛の世界にうごめいている人たちは卑小なものへこだわる猥褻な心と、そんな心にも宿ることもある崇高な感情を自らもてあましながら生きている。人が神になることはない。しかし、神にさせられることはある。
 主人公は舶用無線機器のセールスマン。アドリア海沿岸の小さな港町ゴロに代理店設定のために訪れたのは今年の五月だった。そして、その代理店の経営者、イリオ・ヴィアネッリの自宅で、コソボからのアルバニア難民の心理治療に疲れ果て、早めにヴァカンスをとってロンドンからやってきたイギリスの心理学者、一家の友人、キャサリン・ガードナーと出会う。 そのキャサリンの奇妙で、気まぐれな言動・・・彼女が到着した次の日には俺とイリオはトリエステに仕事で同行することになっていたが、キャサリンは唐突にそのトリエステ行きに加わりたいと云い出す。
 トリエステの夜、キャサリンは男たちの乱痴気騒ぎに加わり、男たちをとりこにする。そして次の日の朝、トリエステに来たかった本当の理由はユーゴとの国境を越え、コソボに向かうためだったと告白する。コソボではキャサリンがロンドンの診療所で心理治療をしたアルバニア系難民の少年カミルの母親である、コソボ解放軍のテロリスト”血みどろのパメラ”がキャサリンの救いを待っているという。

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狂気の世界

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題 名 解 説
第四の眼差し





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 "私"は脳梗塞を患う老人養護施設の入居者。ある日、突然意識を失い、再び意識が戻ったとき、部屋の中の、自分の回りにある慣れ親しんできたものがすべて今までとは変わり果てて、自分自身の体も感覚を失い、浮遊するように感じ始める。
 自分の身に何が起こったのか、原因を突き止めたい欲求に駆られて私は今まで面倒をみてくれた看護婦に付きまとい、養護施設の隅々を巡って様子を探る。そんな私の目に入り始めたのはこの養護施設を経営管理する連中の奇怪な行動だった。
 どうやらこの施設には彼らによって殺害された亡霊たちが大勢住みついているのだが、新しい養護施設の建物ができるとなって彼らのすみかが奪われそうなことから彼らの反乱が始まろうとしているらしい。
 その新館の落成式の披露パーテイーの時、出席したお偉方の前で彼らの反乱が遂に爆発した・・・

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サカナの時代






 原因不明の病気が東京に広がってゆく。隅田川とか、そのほかの人口が密集する河川で多発するその病気は倦怠感とか無気力さとか表に表れない心理的な兆候から始まって、それは閉所にこもって人前に出たくないという衝動に発展するのだが症状が進んでゆくと水の中に飛び込みたいという自殺衝動に駆られその衝動が抑えきれなくなる。サカナ症候群とその病は命名されるが、精神的な病なのか細菌性のものなのか原因がつかめないまま夏が訪れる度に大量発生するようになり,社会不安から東京はパニック状態になり、ついには非常事態宣言が下される。
 現代という名の病巣は何か・・・救済はありうるのか・・・そのテーマを目指して風刺とアイロニーの世界が異様なまでにさめた眼差しにさらされて淡々と現されてゆく。

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楢井春生の"アイロニーとファルス"の世界

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題 名 解 説
神々の
ふかきかわき






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 想像力で作り出されるものが現実を越えられるか・・・そのことがモチーフとなってこの作品は形を整えることになった。様々な二律背反がこの作品を彩っている。邪悪なまでの猥褻さと崇高さ、美しさと醜悪さ、混沌と秩序、魂と肉体の相剋、人間存在の織り成すあらゆる種類の二律背反を描き出すことがこの作品のテーマである。丹念に、かつ、さりげなく人間たちの営みが語られるにつれて、人間の中に潜む神的なものと獣的なものとが交じり合いながら万華鏡のようにあぶり出されてゆく。閉塞された場所で二つの悲劇的な魂が出会ったその時に何が起こったか。二人をマインドコントロールする強大な力にも増してうちなるものが勝利を占めるとき、アメージンググレイスの歌曲の主旋律と共にあたかも鐘楼がなりひびくように人は愛の力に打たれることになる。
 現実に起こった事柄の二番煎じに過ぎないか、それとも人間の深層を暴いた戦慄すべき作品であるかは読者の一人一人が判断することであろう。

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鷲羽山へ
かえれ

第一部
蒼白き馬






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 壮麗な叙事詩を構成するこれは"神々のふかきかわき"と対をなす作品でこの二つの作品の間を登場人物は行き交い、時空を越えたところで作品のテーマが交錯する。
この作品の原型あるいはテーマがすべての作品群ができあがる最初の段階でできあがっていたことは、注目に値する事実である。

 第一部 蒼白き馬(2004年6月刊行予定)

 日本中の野を、山を、街を跳梁する"蒼白き馬"の陰。
 果たして人はその"蒼白き馬"との戦いに勝利を収めることができるのか。その術はあるのか。
 今ある危機を正面から見据え、それと取り組んだ作品。
 もし瀬戸内海にこの美しい"鷲羽山"という名前の山がなかったら、この作品は決して書かれなかったろうし、同じ題材が選ばれたとしても全く別の作品になっていたろうと思われる。


 第二部 光あるうちに(2004年12月刊行予定)

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世紀末の諸感情

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題 名 解 説
百億の呪縛




 この作品はこのホームページが解説された日に既に形はできてはいるがまだその形には原石の荒々しさが残っていて何時か磨き上げられる日を待っている。その日が何時訪れるかはまだ定かではない。
 人間一人ひとりがかつてこの世に存在した同一種族の、あるいは同一民族の、そしてあるいは人類全体のすべての人間的な存在の呪縛を背負って生きているという根源的なテーマによって貫かれた作品である。
 まだ形も何も表されてはいないが、それでも内にあって実りつつある何かがある。人が生まれたところに戻ることを常に希求するごとくこの作品群もまた第一の分類に限りなく近付きながらそれらを越えてゆくことになる。

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そして、魂への回帰 楢井春生の"二十のミレニアムに亙る世界"

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